徒然なるままに 

日常に感じたことを徒然なるままに書いてます

記憶のパズルをかけあわせて

 

ラインの誤作動をきっかけに 何十年ぶりに航空会社時代の友人とお茶をすることに・・

同じ会社ではないけど 航空会社のパーティで出会った彼女。

10数年ぶりの再会。

お互い 年賀状のやり取りはあったものの ほとんど近況もしらない。

ただ 十数年ぶりにあう彼女の笑顔は全く変わらず まるで最近

お茶をしたかのようなそんな笑顔でした。

 

私の近況を聴いた彼女からこんな一言が。

出会ったころ あなたに言われてずっと覚えていた言葉があるの。

そういってくれた彼女。

「私がコンプレックスを話した時 それを気にして一歩踏み出すのをあきらめちゃダメ。堂々と自信もって生きてって言ってくれたの覚えている?

今の活動や人との接し方を見るとあの頃から何も変わってなくて安心した(笑)」

 

私が彼女に伝えた言葉はきっと 自分へのメッセージ。国籍・学歴・収入・生い立ち

人はいろいろ比較したい生き物だけど 皆尊い存在なのだから

強く生きてっていう意味。そんなころから自分の信念があったのだとふと気が付く。

 

そしてお互いのあの頃の話をするうちに 私があの頃親しかった友人に

よく連れていってもらったお店の話題に。

ぼろぼろでほったて小屋のような居酒屋さんだけど まだ営業してることが判明。

「あの頃 〇〇さんも一緒にいたよね。今頃元気かな?」

紹介したことさえ覚えていない友人の名前が出て お互いの記憶をたどる。

まるでパズルのピースを掛け合わせるように・・

 

そのうれしさって なんて表現すればいいのだろう。

誰も知らないようなマイナーな曲や趣味を共有できた秘密の感覚。

 

どちらからともなく「今度あの店に行ってみようよ」

彼女との関係はきっとこれからも細く長く続くのだと確信した。

ふと思い浮かぶ人

 

 

今日は 完全オフの日。

突然 知り合いの彼女からお茶でもしませんかとお誘いが。

こういう時流れに沿う人なので オフだし会うことに・・

どうやら 大きな問題を抱えていて決断をする時期だったそう。

すごく親しいわけでもなく 時々会う後輩でがんばりやさん。

きっと今まで 重圧とプレッシャーと責任感で押しつぶされそうだったよう。

 

傍から見たら華やかで大勢の人に囲まれていて、日々沢山の人の相談にのっている

面倒見のいい人も いざ自分ではしょい込めない大きな問題が目の前に現れた時 

話せる人って限られているものだ。私がそうだからよくわかる。

 

「そっか、いろいろたいへんだったね」と伝えたら

積を切ったように想いを伝え始めた彼女。随分すっきりしたみたい。

 

悩みって様々で話すことで

「嫌われたらどうしよう。軽蔑されたら・・誰かに話されたらって」

考えながら瞬時に人を選ぶ。ふと思い浮かぶ人になれてよかった。

何か解決したわけではないけど

話せてよかったね。肩の荷が降りてよかったね。

彼女がこれを機に いい方向に向かいますように。

それにしても 人生の分岐点や迷い道、環境やステージが変わりたい人が

無意識か意識的か 出会わないはずの状態や人を介して出会うことが増えてきた。

次などんな人に出会うのかそれも楽しみ。

他人から見た私

 

人からみたじぶん。自分が考える自分。

どれが本当なんだろう。

何のために生まれてどうしてここにいるんだろう。死んだらどこに行くんだろう。

小さい頃からそんなことを考える変な子供でした。

 

昨年 同じような感覚の人に出会えい まるでテレパシーのように

お互いが理解しあえるのがうれしくて・・・

小さい頃に「自分の気持ちはあまり人に理解してもらえない」と心を閉ざした私は

「そういう考えって 変な子だなと思われるのが怖くなかったですか?」

と聞いたら「おもわない。みんなが自分の感覚に追いついてないだけだから」と

そんなふうにわかちあえる友人がいたら 人生もう少し楽に生きれたかも。

 

去年は言葉がなくても通じ合う そんな出会いが多かった気がします。

 

自分を出すのが苦手だし 心の内側をうまく伝えるのも苦手だし

私の言葉で誰かを傷つけることも傷つくことも苦手だから

飲み込むをし続けたのだけど 心赦せる人には少しずつだせるようになりました。

 

「貴女は決してもともと 器が広いのではなく相手に合わせて自分の器を広げていく

から無理をしないようにね」って。

 

あなたが悲しいと私も悲しいと気持ちに寄り添ってもらえるのは何よりうれしいし

ほっとする。存在していいんだと。

そんなこと考えなくても ここに存在していいのに・・

 

もう少し自分を愛してもう少し自分を甘やかして赦して大事にしよう。

世界は慈愛とやさしさであふれている

 

あなたの観る世界は何があふれていますか?

 

「幸せを感じる力が強い人」「また会いたいと思う人」の共通点は 

「小さな幸せを数えられる人。」

「自分や相手のないより あるに目を向けられる人」

「私もOK,あなたもOKをだせる人。」

「慈愛に満ちた人」

もちろんまだまだありますが・・私の周りに共通している人はこのようです。

 

いろいろシェアをして気が付いたことは

私は基本的に人が好きなのだと思います。

自分が何気にしたことや発した一言がその人の一日のかけらでも幸せに感じることに

幸せを感じるのです。

 

人は「自分を大事に感じたいし、人にも大事に扱われたい」生き物です。

自己重要感を満たすために人は いろいろなことをします。

ただ 世の中は自分の事で精一杯で 人に関心がありません。

そんな中 人の自己重要感を満たせたらまた会いたい人になります。

それはスキルではなく 心からの行動かどうかすぐにわかります。

 

コンビニに行くと 夜はほとんど外国人のアルバイトさんがレジをしています。

だいたい、どこの人か ありがとうってなんていうのか英語で聴きます。

そして ありがとうという言葉を母国語で教えてもらったらその言葉でありがとうを伝えます。そんな時 すごくうれしそうな顔をされます。

 

なぜ私がそれをするかというと 異国の地で 誰も知らなくて生きる大変さを

経験から知ってるからかもしれません。話しかけたくても言葉がわからず、

少ないボキャブラリーの中で必死で理解して自分で考えてパズルのピースのように会話をつなげる事。

 

私の場合は 自分で選んでした留学ですが もしかしたら目の前のコンビニの

お兄さんは出稼ぎや仕事で日本にきている外国の人かもしれません。

そんなことを考えながら感じながら 「この何気ない会話がこの人の

今日にハッピーになりますように」という思いでいるのです。

 

結局 そう感じることが自分の心を穏やかにしてくれるのです。

世界はあなたが優しいと感じたら あなたの観る世界は優しい。

あなたが慈愛に満ちて世界を見たら あなたの観る世界は慈愛に満ちている。

今年は感じたままにあふれる思いを伝えていこうと思います。

何事も経験してわかるということ

 

20歳の時  それこそ箸が転んでも楽しい年ごろ。毎日が自分中心に回っていて

なんでもできると思っていたあの時代。

 

30歳の人にこういわれた。

「君たちはいいね。大人になるとすごく悲しいこともなくなるけど

すごく楽しいこともなくなるんだよ」 

「ふーん、そんな日が来るのかな?今すごく楽しいのに」

その時 教えてくれた意味は若くて分からなかったけど印象に残った言葉だった。

あれから30歳になった。

もっといえば 年齢はもっと過ぎた。

でもその人が言ったような すごく悲しいことは 今もあるし傷つくし

怖いし、へこむ。

その反面、すごく楽しいことワクワクすること、感動することも 案外ある。

それは もちろん 「初めての経験や体験」はぐっと減るし先は見通せるようになるし

だいたいの答えはわかってしまう。それでもまだまだ人生は長いし知らない場所、新しい出会いは 求めれば死ぬほどある。

 

30歳を過ぎてその人の言う通り

「大人」の定義が「あまり感動も悲しむも感じないこと」だったとしたら

それはその人の経験であって私ではない。

 

つまり どんな人に何を言われても あくまでも

その人の経験談であって いいも悪いも自分で経験して感じて判断するのが

一番しっくりくるんじゃないかな?と思ったりする。

自分の知らないことを知っていたり 経験している人は 年齢や肩書ではなく

「知らないことを経験した人」なのだ。そういう話を聞いて自分が何か感じて

同じように経験をして 初めて腑に落ちるのかもしれない。

 

「偉人の言葉」や誰かの話した「いい言葉」を聞いて「これいいですね。営業に使います」という人がいるけど それを相手に伝えても響かないと思う。だって言葉尻だけ

とらえて本人の腑に落ちてないから。それも経験だしまずやってみること。

 

自分にとって 恥ずかしい過去や失敗談が 経験したということで

案外 誰かの役にたったり 今から壁を乗り越えようとする人の

勇気になったりするものなのだから。

自由を選択するということ

 

大人になると いつの間にか役割やしがらみや 経験値からの損得、優先順位でものを考えるようになる。

いつからか それも洗脳さえていることにもきがつかないくらい 自然に・・

 

子供の頃は「やりたい」「あいたい」「のぼってみたい」「しりたい」

感情という本能が優先。だから毎日がキラキラして楽しい。

感情をいつの間にか 置いてきぼりにしたわたしは 最近「感じる」にシフトしているのだけど これが楽しいけど 苦しい。自由には覚悟と責任が伴う。

純粋に やりたいこと、しりたいこと、会いたい人、好奇心のままに動くことは

まともな常識を持つもう一人の自分が制止するというせめぎあい。

 

それをジャッジしているのも自分なのだけど・・。

生きていくって孤独。生き抜くって孤独。ただ 孤独を知っているからこそ 生まれる優しさや思いやりがあるから歳を重ねることや経験を積むことは決して悪くない。

 

底をしるからこそ あがっていく楽しみや喜びも知っている。

いくつになってもぶれるし迷うし 悩むのだけど その経験や自己開示が

誰かの勇気になるのなら いくらでも伝えようと思う。

カッコイイ定義 

 

どうやら

男性に「かわいい」というとNGらしい・・・

男性は社会性のある生き物なので

「かっこいい」「あなたのお陰でこんな影響を受けました」というのが自尊心をくすぐるそうです。

女性からすると「かわいい」は最高級のほめ言葉なのですが・・。

 

女性に「カッコイイですね。」というのはほめ言葉だそう。

それは生き方がかっこいいという事なのかな?それなら素直にうれしい。

 

女性に「女性らしい」というのはなんだか変なのは確かに・・

 

まっすぐに生きることは 世渡り上手ではないし 要領よく生きる人から見たら

周り道にも見えるけどそれでも まっすぐ自分の気持ちに正直に生きたいと思います。

そういう姿がかっこよく見えるのかな?

素直にまっすぐに生きるのは 勇気がいるし 傷つくしいいいことあまりないけど

やっぱり 人は騙せても自分の心はだませないなあと思うものです。