徒然なるままに 

日常に感じたことを徒然なるままに書いてます

素直になること

 

素直になるのは大人になると難しい。

恥ずかしいとか、照れくさいとか うざいとかめんどくさいって思われたくないから。

 

ついつい 重い鎧をかぶり 表面上では平気な顔をする。

大人になると「感じる事」をしなくても「頭で考える」ことで

自分を正当化することで、相手を論破することで 案外生きていけるものだ。

 

ただ みんなどこかに「肯定的な意図」を持っている。

誰かを傷つけるということは自分を傷つける。

 

相手を傷つけるか、自分を傷つけるかの違い。根っこはつながっているから。

先日 素直に自分の気持ちを伝える機会がありました。

とても勇気がいる事だけど 前提に「相手がわかってくれる人だと信じる事」

「素直になって伝えたいと思える人」だということ。

 

だから相手の反応は気にならない。気にならないというと嘘になるけど

勇気を出して素直に伝えられた自分に〇なのだから。

 

いくつになっても 素直に自分の気持ちを表現することを意識したい。

なんとなくそう感じた年の瀬です。

つながるつながる

 

今年に入り つながる感覚がさらに敏感になってきました。

毎日せわしなく あまり自然に触れてもいないのだけど・・

相手の考えていることがわかったり、その人の事が頭に浮かんだら

電話が鳴ったり、向こうから歩いてきたり・・

 

それって どうやら私だけではない感じ。昔からある感じだけど

五感がとぎすまされてきたというか 思考ではなく「心」にフォーカスすると

さらにそうなりやすくなる。

 

私の場合は 人のイメージを色で例えるのだけど

色をまぜるのに恐れや抵抗があった。

ただ、ある人にその話しをしたら

「いろんな色をまぜるとマーブルになるよね」と言った。

その言葉が忘れられなくて「ああ、この人は心がとてもきれいだなあ」と

思ったことがある。

 

黒を入れたら一気に グレーになってしまうのでそういう色は混ぜないのだけど・・

マーブルだと思ったらわくわくしてきた。

豊かさって何だろうと思う時 「いろんな色を混ぜたら 汚い色になるからやめなよ」というより「マーブルになるから面白そうだね」といってくれる人に包まれることなのかな。

 

同じ感覚の人がお互いを尊重しながら そのままでいいよ、つながっていいよ、ここは安心だよっていう場所がどれだけあるか。それって ある意味とっても豊かで

幸せなことなんじゃないかなあって最近特に思う。

本当に好きな人たちとつながる感覚を大事にする

 

自分を大事にすることって簡単そうで難しい。

空気を読むのがあたりまえ。先に先に考えて

接するのがあたりまで育ったので自分の感情を優先するのが今も苦手で下手。

 

「誰かを傷つけないかな?」

「自分がされたらいやだな」とかいろいろ頭の中でぐるぐるめぐって

結局「自分が我慢すればいいか」という結論になる。

ぐっと飲みこむ日々。

 

ただそれって 自分の心を大切にしていないことに最近気がついた。

「ご自身にご褒美上げてくださいね」と伝えた彼女は

「私・・自分に御褒美が浮かばないんです」とつぶやいた。

あらら、よほど頑張ってきたんだね。

 

私も同じ。「人の笑顔が自分の幸せ」だとずっと信じてきた。

もちろんそれもあるのだけど やっぱりまだぽっかり空いた穴に

埋めたいだけの喜びが見つからない。

 

それはそのままでいいですよ~、ゆっくりでいいですよ~うめなくてもうめてもいいですよ~と優しくいってくれる何も考えず気を遣わず 心地よい人たちに包まれながら

しばらくは 流れに任せよう。

 

頭で考えて会うのに気を使う人、エネルギーを取られる人にはしばらく

充電期間なので元気になるまで会わないでおこう。

 

どうやらすごく心地いい人たちの存在は自分を自然体に、元気にしてくれる。

「自分らしく生きる」感覚を取り戻してくれる。

 

2017年は 本当に好きな人たちとつながる感覚を大事にしていこう。

小さな手に にぎりしめたもの

 

 

幼いころに 握りしめた手のひらにある決意は

とっても意外なものだった。

それを知ったとき 愕然とした自分と 母と自分との関係や

今娘との関係、周りの人間関係に大きく影響していることに気が付いた。

 

それがいいとか悪いとかではなく そうだったのだと腑に落ちた感覚。

「今までの時間を返してほしい」とかわめくとか 騒ぐでもなく

そういう感情を何十年間も置き去りにして 感じないようにしてきた

自分をただただなぐさめ、ハグしたくなった。

 

そっか、そんな小さいころに 大人になるって決めたんだ。

与え続けることで母の愛に報おうと思ったんだね。

役割がある自分は愛される。役割がない自分には価値がない。

もう誰かのために生きる人生は終わりにしましょう。

 

さて自分のためにいきる、といっても2歳から人のために生きてくるのが喜びだと信じていたとしたら「自分の心からしたいことは何?ほしいものはなに?」と聞かれてもわからない。

今はぽっかり穴が開いたむなしさだけがある。

なにもしなくていい。ただ突っ立ているだけでいい感じを味わおう。

今は さみしいといえず ずっと置き去りにしてきた幼い小さな自分を

ただただ、癒してあげよう。

 

そして私が 安心で安全だと思う人たちとまず 自分の感じている気持ちを

共有させてもらおう。何も与えなくてもいいし、

感情を出しても危なくないよ。怖くないよっていう場所にまずは行きたい。

言葉の奥にあるもの

辛い時に 辛いっていうのは 普通で嫌だと思っていました。

辛くても それがあったから今があると思う人生にしたかった。

だから 明るくしていてそれに気が付ける人は その人も抱えているものがあるか

そんな経験があるかなのだと思います。 

生い立ちを含め そこには 小さなころに握りしめた歪んだ価値観があったということに気が付いたのは最近。

 

そっか、辛い時は辛いって言ってもいいんだなあ。

この人は 安心 心を開いても大丈夫という人は 沢山の人にかかわる割には少ない方かもしれません。

 

それでも心から信頼できる人を大切に そして誰かの

そういう人になれるようにこれからもしていこうと思います。

人は 大人でも子供でも

「自分をわかってもらいたい」「自分このままでいいんだ」と思いたい生き物です。

 

それをわかってもらえる人が一人でもいたら 頑張れるのです。勇気もらえるんです。

家族以外にも 沢山そんな居場所があったら 百人力。

 

初対面だろうが 年下だろうが 縁があれば誰かのそんな人になりたいと思います。

表面上の笑顔や行動言動だけでなく 言葉の奥にある

目の前の人の意図を感じられる人が人間的に深みがある人だと思います。

ふわふわ

最近 めまいがひどくふわふわします。

 

そんな時は疲れのバロメーター。

「無理してない?」

「がんばりすぎだよ」

「身体がNGだしてるよ」

そんな声が聞こえます。

 

傍から見るとわからないのが この不調の悲しさ。

なんだか いつも震度1,2のように地面がふわふわゆらゆらするのです。

 

そんな時は誰かの何気ない言葉に傷ついたり

できない自分を嘆いたりすべてが無駄に思えたり

寂しくなったり 心が忙しいです(笑)

 

随分 強くなったつもりでしたが 案外繊細なんだなあとおもいます。

身体は正直ですね。こんな時は ゆっくり 気心知れた友人と会ったり

土に触れたり 裸足で地面をあるいたり 温かいハーブテイーをのみます。

完璧主義なので ついつい頑張りすぎる癖があるようです。

 

いつもどんな自分にも〇をあげたいと思います。

手放す勇気

とっても大きなものを手放しました。

小さい頃から握りしめていた価値観。

誰もそれを握りなさいと言った記憶もなく

強要されたわけでもない・・

ただ子供ながらに祖父母・親の想いを感じとっていたと聞いたときは愕然としました。

 

「身代わりの人生をおりてもいい。」

「自分らしく生きてもいい」

「あなたは国を背負わなくてもいい」

 

そんなことを自分が思っていたなんておもいもしませんでした。

ただ 日本でも一二を争う有能なセラピストさんの質問に

頭で反応しなくても 身体が反応するのです。

心の奥の奥にあった小さな蓋があくと 水があふれだすように涙が

あふれて仕方なかったのです。

どうやら幼少期に決めた小さな自分の覚悟。

 

ただ 決して悪い価値観ではない。

だってあの握りしめた思いがあるから 

祖父母の苦労した背中を見ているから だから

どんなことも頑張れた自分がいるのだから。

ただ もう「誰かの役に立たなくてもいい」

「ここに住むのに罪悪感を感じながら人とつながらなくていい」

「愛と信頼で自分の好きな人とつながればいい」と許可を下ろしました。

 

あなたは自分のアイデンティをとても大切にしているんですねと

セラピストさんに言われてまだ涙がポロリ。

 

このタイミングで解放できてよかった。心からそうおもいます。